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スキーの思い出

先日スキーに行き、しかもブーツと板を新調するなど、最近スキーづいています。
ほんとはこの週末にもスキーに行きたかったのですが、Qもようも妻も皆、風邪を引いて咳き込んでいますので、どうも難しそうです。


スキーづいた中で、ブルーガイドの「大人のスキー」という雑誌を買いました。
書店でスキー雑誌を探したのですが、少なくなりましたね。「月刊スキーヤー」とかなくなった?
ちなみに「大人のスキー」はたまに買います。本棚をあさったら、2003年と2006年にも買ってました。
それで、「大人のスキー」では、今年はスキー伝来100年だそうです。日本スキーの歴史についての記事がありました。その中で、ちょっとびっくりしたのが、五色温泉スキー場が「日本初の民間スキー場」だということです。五色温泉スキー場と、宗川旅館は何度か行ったことがあります。正直言っておもしろいスキー場とは言い難いですが、歴史があると思うと、今では珍しいシングルリフトも趣があります。



さて、私のスキーの思い出ですが、今から28年前、1983年にさかのぼります。当時小学校1年生だった私は、初めてスキーを買ってもらいました。
小学校でもスキー授業があり、1年生と2年生はグラウンドにある築山をならして、そこで滑ります。
うちは、父も母もスキーをする人(母は一時期美津濃スポーツに勤めていたこともある)だったので、某町のスキースクールに放り込まれたりもしました。
その後、3年生になった頃から、弟たちも大きくなってきたこともあり、家族で蔵王スキー場にいくようになりました。あのころ、私の住んでいた地域では、夏休みが短い(8月20日頃で終わる)かわりに、2月の上旬に「寒休み」が数日あったので、これを利用していました。
わが家では、蔵王行きが年間で唯一のリゾートだった気がします。定宿は上の台の川井スキーハウス。山形市にある川井スポーツが持っているロッジです。今でもあるのかな?
(→ググったら今でもありました)


小学校1~2年生のときは、ノーブランドのスキーを買ってもらっていたのですが、3年生になったときに、YAMAHAの板を買ってもらいました。これは超うれしかった。ジュニア用なので、今思えばそんなに高級でもないのですが、とても誇らしげな感じでした。
ちなみに、そのころ、父はクナイスル、母はディナスターを履いていました。

家族での蔵王ツアーは、私が小学校6年生の時まで続きました。年で言うと、1985年~1988年ころです。ちょうど、「私をスキーに連れてって」の後の時期で、リフト待ち30分は当たり前、蔵王の山頂行きロープウェイは午前10時でその日の整理券がなくなるのが当たり前の時期でした。
そして、今と比べると、ウェアの性能が終わっていて、めちゃくちゃ寒かった。靴下2枚履いてもしもやけになるし、インナーウェアなんてないから、スキーウェアの下は毛のセーター着てました。それでも寒くて寒くてしかたがなかった。今と違って、フード付き高速リフトなんてなくて、全部ノロノロのリフトで、リフト待ち30分、リフトで風に吹かれること10分、体は芯まで冷えてましたね。
一番印象に残っているのが、うちは蔵王の中で上の台というところで宿泊してますので、通常はスカイケーブルを使って上にのぼっていきます。ところが、風で止まっているため、並行して走っている山交リフトに乗らざるをえなかったわけです。
山交リフトというのは、蔵王の上ノ台ゲレンデのベースと、中央ゲレンデを結ぶリフトで、今は高速リフトに付け替えられています(山交というのは山形交通の略)。
→ ところが、今のゲレンデマップを見たら山交高速リフトがなくなってる!!これはちょっとショックです…山交リフトが高速になったとき、むちゃくちゃ感動したのに…
この山交リフトは、当時はシングルリフトで、山交第1リフト、山交第2リフトという2つに分かれたリフトになっており、2つ併せて20分近くシングルリフトに乗り続けなければならなかったのですね。これは小学生の私には拷問に思えました。寒いし揺れるし1人だし…




そんな蔵王ツアーが小学校6年生(1988~1989シーズン)まで続きました。
ところが、中学生になると、部活があるので、3日も4日も休むわけにはいかず、スキーはいったんやめになりました。第1のブランク期です。この間も、弟たちと両親は蔵王ツアーに行っていて、私は祖母とお留守番でした。

中学校3年生(1991~1992シーズン)になり、部活も終わり、高校受験も楽勝状態だったので(このときサボったために高校に入ってから苦労しましたが…)、中3の冬はそこそこスキーをしました。
それで、これくらいの年齢になると、父親と身長も同じくらいになっていて、「お父さんも着れるから」という、分かったような、よく分からないような理由でスキーウェアを買ってもらいました。フェニックスの海和モデルです。
「海和モデル」というのは、当時一世を風靡していたデモンストレーター海和俊宏のモデルですね。ワールドカップを転戦し、その後デモンストレーターに転向して、「スキーナウ」によく出ていました。私も、深夜に放送されていたスキーナウを正座して見ていた記憶があります。

そして、父がちょうど板を買い換えました。ロシニョールのヴィラージュというモデルです。当時、デモモデルで屈指の扱いやすさを誇ったモデルです。
私自身もアトミックの量販モデルの板を乗っていたのですが、これが堅くて乗りにくくて、父親に「こっち貸して」と言って、(無理矢理)ロシニョールの板を使わせてもらっていました(父は、私にヴィラージュを取られて、翌年、もう1つ上の「スーパーヴィラージュ」を買ってました)。

ちなみに、実家の倉庫をあさったら、ロシニョールのヴィラージュ、スーパーヴィラージュ、ヴィラージュレディ(母が乗っていた)、YAMAHAの最後の渾身の1本ツインチューブ(弟が乗っていた)とか、今でも眠っていると思います。今度行ったときにでも写真を撮ってきます。




高校受験も無事終わり、高校に入学します。
私が入った高校では、1年生と2年生の冬期間、スキー授業がありました(私で言えば1992~1994シーズン)。スキー授業の日は、午前中(1・2限)は授業をして、移動中のバスで昼食をとり、午後の3~5限を体育のスキーに充てるということをしていました。おかげで、冬期間は他の体育はなしです。
私はそこそこスキーが出来たのでそれでよかったのですが、苦手な人には苦痛なカリキュラムだったのではないかと思います。モンスターペアレンツ全盛の昨今では、こんなことはできないかもしれません…

私自身は父から(無理矢理)いただいたロシのヴィラージュをありがたく使っていました。家族でのスキーツアーは宿泊を伴うのは無理でしたが、日帰りでぼちぼちという感じでした。行き先は、多くは栗子・米沢で、気合いを入れるときは蔵王まで、という感じでした。



そして、いよいよ大学です。スキーナウなどの誤ったスキー情報に踊らされていた私は、大学に行ってスキーが出来ればモテモテに違いない、と確信していたわけです。
ところが、大学に入って、スキーが出来ればモテるかもしれないが、

金がなければスキーは出来ない

という現実に直面したわけです。両親にねだってもよかったのですが、下宿までさせてもらって、遊びの金をくれ、とは言えませんでしたので、スキーは完全に封印されました。第2のブランクです。本当にスキーが好きなら、サークル入って、冬はスキーロッジでバイトして、空いた時間にスキーをするという選択肢もあったのですが、そこまでではありませんでした。


そして、司法試験に受かり、自活できるようになって今に至ります。
自分でお金を稼ぐようになって、そのお金をスキーにつぎ込むあたり、やっぱりスキーが好きなんだなって実感します。


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某所(旧ブログを見ればすぐに分かります。このブログでもいずれすぐにわかります。)で弁護士をしています。このブログを開設した時点で7年目です。



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